悟りの境地・全人類が一瞬で目覚める瞬間がある

天国と地獄


天国とか地獄と言うのは、ある一定の場所のことを言っているのではありません。
それは心の状態のことを言っているのです。
心が大調和していれば天国、不調和なら地獄にいるということです。
生きながらにして、天国にも地獄にも住むことはできるのです。

天国とは真我のことを言います。
地獄と言うのはカルマの世界です。
真我が本当の自分ですから、天国は私たちの中にあるのです。

自分で地獄というものを認めた時に地獄に落ちるのであって、それは自分だけの一人相撲のようなものです。
幸せな家庭の中にいても「私は不幸だ」と言っていたら不幸になるのと同じです。
本体そのものはいつでもみな天国にいるのです。
もう既に私たち六十三億人は天国にいるのです。
それに目覚めればいいのです。

本当は地獄などは存在しないのですが、地獄だと思っている存在があるのです。
真我そのものが天国ですから、私たちは既に天国にいるのです。

全部心の世界です。
過去の記憶に縛られて、地獄だと思ったら地獄なのです。
しかし、真我が完全に自分のものだと思ったら、その場から天国になるのです。
地獄と天国は内なる世界にあるのです。
外の世界にあるのではないのです。

肉体が滅んでも、想念がそのまま縛っていたとしたら、その延長になります。
真我を悟ることができず、苦しみの想念そのものを自分だと思っていたら、
肉体がなくなってもその想念だけが残る場合もあります。
それを霊体もしくは幽体と言います。
肉体があろうが滅びようが、天国を見た時はいつでも天国、地獄を見た時は地獄なのです。

本当は天国しかないのですが、私たちはそう思えない状況が目の前に現れた時に、どうしてもその現象に囚われてしまいます。
今抱えているものが強烈であればあるほど、その現象に引っ張られてしまうのです。
例え、目の前にいる人にいかめしい顔で怒鳴られたとしても、その時点では実はまだ問題は何も起きていないのです。
ところが、自分の心の中で問題が起きてしまうのです。

しかし、そのような場合でも、全ての人は真我そのものであるという強い確信を持っていれば、その状況に囚われなくなります。さらに強ければ、相手をも一瞬で変えることもできるのです。どれだけ偏屈な人であっても、こちらが光になって接していけば、相手の闇は消えてしまうのです。いかなる悪人でも、善人に変えてしまうことができるのです。ただ真我を開いて、愛そのものになっていればそうなれるのです。徹底的に真我を開いていけば良いのです。

宇宙という言葉についてもいろんな解釈の仕方があります。
宇宙の中に天国も地獄もあるという言い方もできますし、聖書で言うように天国の中に宇宙があるという捉え方もできます。
一番精妙な世界が天国であり、精妙であるほど広いと捉えることもできますから、
そういう意味では天国の中に宇宙があると捉える方が正しいかもしれません。
天国と言うのは神そのものであり、全ての全てだから、一番大きなものなのです。

しかし、天国と言うのも宇宙と言うのも、あるいは無限空間と言うのも、
全て言葉の解釈の問題であり、人間が勝手に区別したものに過ぎません。
究極を言えば、全ては一つしかないのです。

神が人間たちを裁くと捉えている人たちがたくさんいますが、本当は神が裁くのではなく、
自分たちがやったことがただ返ってくるだけなのです。
天に向かって唾を吐いたら、それが自分に戻ってきます。
それだけのことに過ぎないのです。
ですから、神が人間に手を下すわけではありません。

自分がやったことが自分に戻ってくるという因果の法則が働いているのです。
ですから、裁いた者は裁かれます。
与えた者は与えられ、奪った者は奪われます。
全ての結果には、必ずその原因があるのです。
そしてまたその原因にも、それを生んだ原因があるのです。

旧約聖書では、神がモーゼをつかわして迷える民を処罰したことになっていますが、
本当は神が裁いたわけでもモーゼが裁いたわけでもないのです。
神が手を下さなくても、いずれは自分の蒔いた種が自分にはね却って来るのです。

ただし、モーゼが本当に神の使いそのものだとしたら、
人間たちに早めにそのことをわからせてくれたと捉えることもできるのです。
巡り巡って結果が出るのを待つのではなく、その場で結論を出してしまったということです。

わかりやすく言えば、今ここで悪事を働かせた人がいたとして、そういう人は放っておいても裁かれるのですが、
今その場で頭をたたいて教えてあげたということです。
そのように考えると、その方がより愛があると捉えることができるのです。

真我はキリスト教で言う天使に当たり、業はサタンに当たります。
常にこの二つに分かれるのです。

脳で考えることを一番にすることはサタンです。
脳で考えることは全て妄想の世界です。
サタンは妄想なのです。
妄想の世界は、どこにも存在しないのです。
故に、サタンなどは、実在はしないのです。

妄想は脳から出たものですが、その脳を創ったのは神であり脳もまた神ですから、妄想のもとはやはり神なのです。
サタンももともとは天使だったというのは、実はそういう意味なのです。

蓮の花というのは、泥沼の中に咲きます。
ちょうどそれと同じく、世の中にカルマが充満すればするほど、その反作用として真我に目覚める人が現れてくるのです。
戦国時代に英雄が現れるのに似ています。
カルマが充満して人類全体が危機に陥った時に、まさしく真我そのものの人が現れてくるのです。

事業を営んでいても、苦しい時にこそ、「何とかしなければ」という強い意志からいろんな知恵が出てきます。
苦しい状況に追いこまれてこそ、磨かれた人が出現するのです。

「イエスの降臨」とは、真我そのものの人が、地上に現れるということを指しているのです。
あるいは、人が真我に目覚めること自体を指しているのです。
ですから、特定の誰彼ということではなく、どんどんみんなが真我に目覚めていっても何も不思議ではないのです。
つまり、イエスと言うのは、真我に目覚めた人のことを総称して言っているのです。

聖書の解釈の仕方も、従来のようにキリストを一人の固有の人物として捉えるのではなく、
キリストを目覚めた魂の総称として捉えるようにしないと、従来のような捉え方だけだと闘いが始まってしまいます。
ですから、現代社会にはもうそぐわなくなって来ているのです。
イエスのいた時代は、まだ大衆のほとんどが文字が読めなかったり、理解する力が未熟でしたから、
わかりやすくするためにイエスという一人の人物の物語として知らしめたのです。
しかし、現代は、全体の知識レベルも理解力も上がって来ているのですから、より本質的なことを伝えて行けるはずなのです。

キリスト教に限らず、イスラム教でも同じです。
どうしても今までのような理解の仕方だと、お互いが敵対視し、闘いの元になってしまうのです。
ですから、私はキリストを真理だと断定しては言わないのです。
イエス・キリストを真理だと言い切ってしまうと、クリスチャンは受け入れますが、
他の人たちは受け入れられないか反発を覚えることになるからです。

同様に、仏陀というのは、ゴーダマ・シッダルタという特定の人物のことを指しているのではなく、
真理を悟った人の総称なのです。
ですから、本来、仏陀もキリストも全く同じ意味なのです。


27)「心の貧しい人の方が救われる」を読む





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