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悟りの境地・全人類が一瞬で目覚める瞬間がある

キリスト教の本質とはなにか


キリスト教では、「人間は神の子」とも「人間は罪の子」とも言います。
一見全く正反対のことを言っているのですが、これは、真我を自分と捉えた時「神の子」になり、
業や頭を自分と捉えた時には「罪の子」になるという意味なのです。

キリスト教では、人間はみな原罪を持って生まれているために基本的には救われないのですが、
「イエスを信じることによってのみ救われる」という教義になっています。
ここで言うイエスとは、肉体を持ったイエス・キリストのことを指しているのではありません。
イエスとは、真理であり、神であり、法則であり、真我そのもの、愛そのもののことを指しているのです。

イエスが真理ならば、「最後の審判」の時が来るというキリスト教の理論も間違いではありません。
人類がこのまま真理に反して生活していたら、やがては当然ながらそれだけの酬いを受けることになるでしょう。

キリスト教で言う地獄とは、ぶつかり合い、修羅の世界、分離の世界です。反対に天国とは、
一切ぶつかり合いのない大調和の世界です。
全てと一つに調和している世界です。
天国も地獄もけっして肉体が滅びてから行く世界というわけではありません。
肉体を持っているいないとは関係がないのです。
また、同じ場所にいながら、天国に住んでいる人も地獄に住んでいる人もいるのです。

キリスト教では、創造主がいて、創造主に創られた宇宙やわれわれ人間がいるという二元論が前提になっています。
しかし、私は一元論、神一元の世界を大前提と捉えているのです。
この宇宙に、神以外のものがあるとしたら一体何があると言うのでしょうか?

神とわれわれ被造物とを分けるという考え方は、本当は間違っているのです。
犬の子は犬、猫の子は猫ですから、神の子は神なのです。
ですから、私たちも神そのものなのです。

これはあくまで私の推測ですが、イエス以降にキリスト教を伝えてきた人が、
イエスが説いた真理を捉え切れなかったために、いつのまにか二元論になってしまったのではないかと考えています。
イエス・キリストのような高い意識を持った人はほとんどいませんから、
真理のことを正しく理解することができなかったのでしょう。

真我こそが本当の聖書なのです。真我こそが本物の仏典なのです。
本物はあの書物にあるのではなく、私たち自身の中にあるのです。
あの聖書は、聖書を書き記した人の次元でしか表されていないのです。

「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ」というような言葉があります。
人の頬を叩くということは、その人に余程憎い感情があるということです。
と言うことは、一回叩いたくらいでは、その人の気持ちは解消されません。
ですからそこで、「もっとわだかまりはないですか?どうぞ完全に解消してください」
という意味でさらに相手に殴らせるのです。
相手には業があるし、自分にも相手の業を引きつける業があるのですから、
相手の業と自分の業を消すためにも、もう一回殴られるくらいでちょうどいいという意味なのです。

そこで殴った相手に対して被害者意識を持ってしまうと、今度は相手に罪の意識が残る可能性があります。
その時に、「ありがとうございます。本当に勉強になりました」と言えば、相手はもう業を背負わなくなります。
悲観的な捉え方をしてしまうからお互いに業が残ってしまうのです。

性善説と性悪説という二つの相反する考え方がありますが、性善説とは、
人間の奥には真我があるということを言っているのです。
それに対して、性悪説というのは、業の部分を指しているのです。
キリスト教で「人はみな罪人である」というのも、やはり業の部分のことを指しているのです。

「罪を憎んで人を憎まず」と言うのは、過去の業を憎んで真我は憎む必要がないということです。
罪人というのは、神の意に沿わないで行動する人のことを言います。
宇宙の法則に沿って生きれば、誰もが「神の子」になれるのです。

私たちは、脳で物事を考えることを一番にして生きてしまいますが、
その脳自体を作ったのは誰なのかを考えてみる必要があるのです。
その観点から捉えて生きるようにすると、私たちは徐々に神の子に近づいて行くのです。
しかし、現代人の多くは、脳で考えたことを一番正しく、一番偉大なことだと思い込んでいます。
そういう人たちのことを罪人と言うのです。
そういう意味では、「人はみな罪人である」と言う言葉は真実でもあるのです。

人間は神の意に沿うこともできるし、神の意を無視して自分の考えで動くこともできます。
ですから、人間は「神の子」であると同時に「罪の子」でもあるのです。
かと言って二重の存在というわけではありません。
本当はみな「神の子」でしかないなのですが、二重の存在のように見えるだけなのです。
本来は実相しかないのですが、仮相の世界に生きているように見えるのです。
私たちは夢の中で生きているようなものなのです。

キリスト教で言う原罪とはカルマのことです。
ですから、カルマのない人のことをキリストと言ってもいいのです。
たまたまその時代にはイエスしかいなかったから、イエスだけが神の子だと言っているわけです。
しかし、実相だけが真実ですから、本来は誰も原罪などは持っていないのです。
ですから、本当は全員がキリストだと言ってもいいのです。

脳を使うことが原罪なのではありません。
神の意に沿った脳の使い方をすれば、それは原罪ではないのです。
神の意に沿って知恵を使うことは大いに良いことなのです。
例えば、ある先生の所に弟子入りをしたのに、その先生の教えを無視して自己流にやったら罪です。
先生の意に沿って学んだら、そういう人が本当の一番弟子になります。

人間の原罪とは、自己流の知恵を身につけてしまったことを言うのです。
知恵そのものが罪なのではありません。
神の知恵ならば、それは罪ではありません。
人間の浅知恵が罪なのです。

キリストがいた時代には、キリストしかカルマを持っていない人はいなかったということなのでしょう。
しかし、これからは、全員が真我に目覚め、カルマをなくしていけば、みんなキリストのような神の子になれるのです。
そして、一早くそういうふうになれた人が精神世界のリーダーになるのです。
原罪を持っている人と持っていない人が議論をしても始まりません。
原罪を持っている人は、原罪を持っていないリーダーの意に百パーセント沿わなければならないのです。
そうしなければ、いくら議論を重ねようとも、原罪を消すことは永久に不可能なのです。

最後の審判の時期が、今一秒ごとに近づいているのは事実です。
地球の温暖化や砂漠化、森林伐採といった環境問題、戦争、病気などあらゆる面の問題が地球規模で起きています。
最後の審判の時が来ると言うのは、これらの問題が拡大して行った結果、
人類がこの地球上に住めなくなる時が来るということを指しているのです。

今人類は、自分達の脳で考えたことを一番にして行動していますから、宇宙の法則にも地球の意にも沿っていません。
そうすると、最後には宇宙の法則によって裁かれる時がやがてやって来るということなのです。
しかし、その中でも法則に叶って生きている人だけが、ノアの箱舟によって救われるというわけです。

カルマというのは、人間が脳で考えた結果として残るものです。
神の意に沿っていたらカルマは残りません。
カルマをたくさん背負っている人がいわゆる地獄に落ちるのです。
カルマがどんどんなくなっている人と言うのは、時間とともに天国に向かって行っているのです。


26)「天国と地獄」を読む





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