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悟りの境地・真我とは人生双六の「上がり」である

自分と言う船の櫂は自分で握れ


真我を開くと、宇宙の法則と言う川の流れに乗ることができます。
では全て川の流れに身を任せればいいのかと言うと、そうではありません。
方向を定めることや、軌道修正をすることは私たち自身の意志にかかっているのです。

私たちは自分と言う船の櫂だけは持つ必要があるのです。
櫂というのは自分の意志のことです。

ただ流れに身を任せているだけだと、船は岸にぶつかってしまうかも知れませんし、荒波にもまれるかも知れません。
ですから、櫂だけはしっかりと自らの手で握り、
岸にぶつかりそうになったらぶつからないようにコントロールをする必要があるのです。

岸にぶつかるというのは、ほとんどが人間関係のトラブルのことです。
こちらがいくら愛を持って接したとしても、相手からは強い妬みや恨みの心が返ってくるかもしれません。
その時に、自分の意志で相手の想念に巻き込まれないようにしなければ、その波動に巻き込まれてしまいます。
もし、まだ今の自分のレベルでは巻き込まれてしまうと思ったら、「できるだけそういう人には近づかないようにしよう」と決めることも大事なのです。

「あるがままに」という言葉があります。
その言葉通りに解釈して、何もしないでただ環境に流されて生きてしまう人がいます。
そういう人は、結局はまわりの人の言葉に振り回されてしまいます。

「あるがまま」とはそういう意味ではありません。
「仏に目覚めた上で湧き上がる心のまま」でなければならないのです。
仏に目覚めないのは、本当の「あるがまま」とは言いません。
それは単なる無秩序です。
本当の「あるがまま」は、神の秩序に沿うと言うことなのです。

「これからどこに行こうか?」と考えるのではなく、どこに行くべきなのかを発見するのです。
川の流れる先は、上空から見たら一瞬にしてわかります。
川の目的地は最初から決まっているのです。
私たちの人生も、川の流れと同じように最初から行きつく先は決まっているのです。
ただ、川と違う所は、私たち人間には無限に選択の余地が与えられていて、どこに行くこともできるということです。

しかし、神に目覚めたら、その人の向かう道は一つになります。
人間は道が無限にあると迷いますが、一つしかないと迷いません。
私たちの心がいつも迷っているのは神に目覚めていないからです。
自分の行くべき道が見つかることを悟りと言います。
本当の自分を見つけて、自らの目的地に向かって行く人は一切の迷いから脱却できます。

本当に真我を開いている人は、疲れることがなく、病気にも縁がなくいつも健康でいられます。
その上、トラブルなどに巻き込まれることも滅多にありませんから、安全で平穏な毎日を過ごすことができます。
真我は調和そのものですから、調和の世界に生きることができるのです。

調和とは、人との関係だけを指しているわけではありません。
自分の心との調和もあるのです。
自分の心が乱れないということも調和です。
心が乱れるというのは、現象面と自分の心の間にギャップを感じているということです。


60)「疲れずにできることが自分の役割である」を読む


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