Homeすべての行為は自分を知る働きである> 心という土砂を掘り起こして黄金の真我に辿りつく

悟りの境地・すべての行為は自分を知る働きである

心という土砂を掘り起こして黄金の真我に辿りつく


では、どのようにしたら真我を開くことができるのでしょうか?
第二部ではその方法について触れていきましょう。

まず知るべきことは、真我に辿り着こうとしたら、心を静かにしているだけでは不可能だということです。
地下深くに黄金が埋蔵されているとしたら、地上からその黄金を見ることはできません。
ただ心を平静にしているだけでは、土しか見えません。
その土を掘り起こしていかないと、いつまで経っても黄金は見つからないのです。
真我に辿り着こうとするなら、心を奥深くまで掘り下げて行かなければならないのです。

ものごころがつくまでの幼児は、土そのものがあまり堆積していませんから、真我に非常に近いとも言えます。
しかし、土が風に乗って運ばれてくるように、時間とともに経験と言う業が真我の上に覆い被さってしまうのです。
ですから、大人になればなるほど、真我の意識から遠ざかってしまうのです。

心を完璧に透明にすることができたら、心を掘り起こさなくてもその奥にある真我を見出すことはできるかもしれません。
しかし、現代人にとっては、それは現実的ではありません。
なぜならば、現代人のほとんどが、透明にすることが不可能なほど心が澱んでしまっているからです。
また一点の澱みもなくするような機会にも恵まれていません。

ですから、現代のわれわれが、心をいくら平静にしようとしても、まず真我に辿りつくことは考えづらいのです。
実際に多くの人たちを見ていると、それをつくづく感じます。
ですから、どうしても掘り起こすという作業が必要不可欠なのです。

私の講座の中では、あるテーマについて休まず書いていくという作業をしますが、書くという作業には、
思考を停止させるという目的と、より心を深く掘り下げていけるという効果があるのです。
一つの問題を抱えている時に、頭の中で考えていても堂々巡りになりますが、一旦紙に書いてしまえば、
同じことを何度も繰り返さなくなります。

ですから同じ所に留まらず、さらに深く入っていけるのです。
ただ一人で悶々と考えるのと違い、書く作業というのが大変効果的なのです。

地中深く掘り進めるためには、土を外に捨てなければなりません。
土を掘り起こして初めて真我にまで辿り着くのです。
土を捨てるわけですから、土が汚いほど早く掘り起こしやすいのです。

つまり、自分の中に醜い心や辛い心を持っている人は、汚いものと同じく早く外に捨ててしまいたいという衝動に駆られます。
ところが、途中で綺麗なものが出てきたら、それがもったいなく感じてしまい、
そこで掘り起こして捨てるのを躊躇してしまいまうのです。

親鸞上人も“善人尚もて往生す、況や悪人を哉”と説いています。
これは、自分は業が深いと思っている人の方が、自分には業はあまりないと思っている人よりも救いやすいという意味です。
自分の中に良いと思われる心が出て来ると、そのことに愛着を感じるために、
そこから先深く掘っていけない可能性があるのです。
そうすると、真我には辿り着きづらくなってしまいます。

しかし、自分の父や母の良い所が出てきた時はまた別なのです。
なぜならば、その父や母の素晴らしい心と比べて、自分の心が汚く見えるからです。
親に対する感謝の気持ちが足りなかったと、申し訳ない気持ちが出てくるのです。
そうすると、その醜い自分の心を捨てようとしてさらに掘り進めて行けますから、その分早く真我に近づけるのです。

親に対する深い感謝の気持ちが湧いてきた時には、「お父さん、お母さんありがとうございます」という言葉と同時に、
「ごめんなさい」という言葉が自然と出てきます。
それは、自分の到らなさに気づき、申し訳ないという気持ちが出てくるからです。
そしてそれが、その自分の醜い心を早く捨て去ろうという気持ちに繋がるのです。

心の内面を掘り下げて行く手法に、内観法と言うものがありました。
内観法は、自分の過去の記憶を一つ一つ辿り、親に感謝できるようにしていくという方法です。
しかし、内観法だと、親に感謝するというところで留まってしまいます。
実は、それでは、本当の真我にまでは辿り着かないのです。
ですから、親に感謝ができるようにはなっても、カルマやトラウマの全ては消えないのです。
それは、本当の自分、真我に気づいたわけではないのです。

内観法はプラスの業でマイナスの業をプラスにするという作業です。
ですから、そもそもの目的が全然違うのです。
真我を開くというのは、親に感謝できるようになることが目的ではありません。
真我に辿り着くそのこと自体が目的なのです。
親に感謝するという次元で満足していては、けっして真我にまでは辿り着けないのです。
真我はもっともっと奥深い所に存在しているものなのです。

親に感謝すると言っても、中には親に感謝など絶対にできない人もたくさんいます。
親に捨てられた人もいれば、親に虐待された人も、また、みんなを遺して自殺してしまった人もたくさんいるのです。
そういう人には、「親に感謝しなさい」と言えば言うほど苦しまなければなりません。
ですから、自分の過去の記憶を相手にしているうちは真我にまでは辿り着かないのです。

私は、親に感謝できない人の場合は、逆に徹底して親を憎ませます。憎ませて憎ませて、
そして真我にまで入っていくこともできるのです。
真我を開けば、真我の光でいかなる人をも愛せるようになります。
そうなれば、その時には、どれほど恨んでいた親であっても愛せるようになるのです。
そして、今までの自分にはとても想像できないほど、親に対して感謝の気持ちが自然と溢れ出てきます。

真我まで辿り着くと、例えば親が自殺をしたとしても、なぜ自殺をしたのか、その真意が見えてくるのです。
自殺という行為すらも、全ては愛の行為だということが見えてくるのです。

真我はもともとあるものですから、そこまで辿り着くと、どんなに感謝の心を忘れた人でも、
長年喜ぶことのなかった人でも、一瞬の内に溢れんばかりの感謝が湧き出て止まらなくなります。
本来業は存在しないものですから、業の浅い深いは関係ないのです。

人間には、否定することによってしか気づけないというところがあります。
特に自分は幸せだと思っている人や、自分は正しいと自信を持っている人は、
一度徹底的に否定しないといけない場合があるのです。
しかし、それはそのことによって新たにトラウマを作ってしまう危険性もありますから、
相手をよく見極めてやらないといけないのです。

苦しんでいない人よりも苦しんでいる人の方が遥かに真我に辿りつきやすいのは事実です。
私の所に来て、苦しんでいるのになかなか真我を開きづらいという人は、まだまだ苦しみ方が足りないのです。

しかし、かと言って、自分からわざわざ苦しい状況を作ろうとする必要もありません。
なぜならば、自分では絶対に手加減をしてしまうからです。
ですから、絶対に信頼にたる先生が必要なのです。
そして、その先生に自分の殻を徹底的に壊してもらうことです。

例えば、スポーツ選手で、「私は未熟です」と言う人に対しては、先生はそんなにその人を壊す必要はありません。
しかし、「私は何でも知っていて何でもできます」と言う人には、一回その人のプライドと固定観念をぶち壊す必要があります。「お前はまだ何もわかっていないじゃないか!」とズタズタにぶち壊してしまう必要があるのです。


43)「まわりの環境は全て自分の心の影である」を読む





「本当の自分」を見つけたいけれど、 何をやっても「自分探しの旅」に終止符を打てないあなたへ
自分探しに終止符 を打ちませんか?本当の自分(真我)に出会って使命を見つける簡単な方法とは?